志賀町町居に生まれ、農業・薬業を始めとして加賀藩の産業振興に尽くした学農
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標左衛門は1762年(宝暦12年)に町居で生まれ、1792年(寛政4年)に三代目伊兵衛(通称標左衛門)となり、1841年(天保12年)に永眠している。 このページは石川県立図書館長、松任高校校長などを歴任された清水隆久氏が編纂された「百万石と一百姓」2009年3月農山漁村文化協会発行を参考にさせて頂いた。 |
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標左衛門が編纂した書物のごく一部
上段左から 「馬療木鐸大全」 「農業開奩志」 「尚志軒雑禄」
下段左から 「馬療本草」 「工農業事見聞録」 「天保上申書」 |
青年時代に飼っていた牛馬が発病してもただ見守るだけで何も出来ずに死に至ったことを悔やみ、本草学(薬学)を学び、京都の小野蘭山(上の肖像画)を訪ね、3年に渡って師事する。 松村家が町居の豪農であったこと、福浦に近かった事から全国の知識が得られやすかった事などが、その背景とは思われるが、学問を究めたいという標左衛門の熱情あってのことであろう。 |
本草学の研究として、山野をめぐって薬草を収集し、植物学史上稀有の「さく葉帖」22冊を編纂した。 また、飢餓時に食いつなぐため山野に自生する植物の利用などを「救荒本草啓蒙」10巻にまとめるなど、研究の実用化を図っている。 そして自宅近くに薬草園を設置し、薬種業「芳山堂」を営むに至る。 「飲食之解毒丸 能登 村松紀風」「神変不思議五香湯 能登園 村松芳山堂剤」「風眼(はやり目)の妙薬」・・・など多くの種類を製造し、高浜、能登部方面に卸すとともに、京都、大阪、江戸の薬種業に卸していたようだ。 |
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薬草園経営に成功した標左衛門は、その能力を買われて加賀藩産物方植物主付に任命され、金沢での薬草園設置を提案したが、文政4年(1821年)の十村制度廃止という農政上の大激変により、実現しなかった。 藩産業振興の情報を入手するため、文政二年(1819)には大坂・京都・奈良・和歌山を訪れ、作物だけでなく工業に関する調査を行った。 さらに文政4年(1821)には朝鮮人参栽培調査の命を受け、日光、駿河、甲州の産業視察に旅立っているほか、幕府の蛙原、小石川薬園を見学し、「工農業事見聞録」7巻を編纂した。 |
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村松家は10数頭の牛馬を保有していたが、病気になってもなすすべもなく加持祈祷や呪術に頼っていたが、標左衛門はあらゆる伝を頼って参考となる書物を全国から集め、「馬療木鐸大全」17巻を編纂した。 その熱情と、やり抜く信念には、ただただ敬服するのみ。 |
文政・天保の2度にわたって提出された 「御国政府申上候帳冊」
233項目もの上申が認められている。 |
藩より評価されていたとはいえ、一百姓の標左衛門が藩に対して意見を取りまとめ、上申しているのには驚く。出すほうもすごいが、受け取った当時の藩も包容力が大きい。 「肥料価格の騰貴抑制を」「銅山開発と産銅の利用」「他国出しの金銀抑制を」など産業政策 「悪奉行の在任は長く、良奉行は短い」「ぜいたくな陶器は差留を」「遊女町は無益」などの政策批判 「浅野川水防対策を」「砂浜等に植林を」など治山・治水対策 |
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晩年には農事暦に伴う農事内容、家族や奉公人の心の持ち方、守らなければならない事柄などを「村松家訓」(4巻)にまとめ、子孫に残している。 リンク
日本農書全集 第48巻 村松標左衛門著『工農業事見聞録』巻1〜巻4
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