尾佐竹猛

 

志賀町に生まれ、13歳で志賀瑣羅誌を編纂した天才少年は大審院(今の最高裁)判事にまでなった。

 

 

 明治13年(1880)に羽咋郡書記を務める父保の長男(5人兄弟の3番め)として生まれた。本籍 高浜町イ64

 明治19年に大念寺新小学校(22年に高浜小学校と改称)に入学、27年に卒業した。

 後列左より    甥横山一俊  尾佐竹猛  弟尾佐竹竪

 前列左より 山本多嘉子 妹横山実 母愛 父保  妹の次男横山俊平

  

 尾佐竹は、なんと13歳で242頁からなる「志賀瑣羅誌」(しかさらし)を執筆

 志賀町全域に渡る地域史であり、彼の非凡さが窺える。「志賀史」としたかったが、(しかし)となって面白くないので、名産の志賀晒をもじるとともに、細かく資料を掘り起こして編纂したという意味合いから瑣羅誌と名付けたようだ。

 自筆謄写本は2冊現存しており志賀町指定書跡となっているが、昭和45年に室谷幹夫氏(故)によって複製本が公刊された。

  第一篇 総記 区名の由来、沿革、位置、地形、地勢、気候、戸口

  第二編 地区史 甘田村、加茂村、土田村、上熊野村、堀松村、志賀浦村

  第三編 地区史 高浜地区

 

 明治29年(1896)、明治法律学校に入学

明治32年(1899)7月 首席で卒業 司法官試補を経て福井、名古屋、東京の地方裁判所判事となる。

大正13年(1924)大審院判事

判事と言うと堅物と思うし、写真も超まじめに見えるが、次の結婚の経緯や、その次の話を読むと、えーーー本当に最高裁の判事?かと疑うほど、とっても柔軟で人間くさく、親しみが持てる。

 

 明治44年(1911)に福井の料亭「五嶽楼」の長女山田まさと結婚

当時の家制度と民法としては、長男と一人娘との結婚は考えられなかったが、まず事実婚として夫婦生活を始め、長女信子が生まれると信子を山田家の幼女とし、まさの籍を山田家から抜いて正式に結婚した。

さすがに法律を知り尽くした尾佐竹だけあって、ウルトラCとも言うべき戸籍操作で跡取り問題を解決している。

 

 

「法窓秘聞」

 

尾佐竹 猛

 1999年12月10日

 初版第一刷発行

 批評社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕が数年前に、ある大学の講師を頼まれたときに、例のごとく履歴書を出せといわれたから、紋切り型の貧しき経歴を数行書きつらねた末、賞罰という欄があったから、多少躊躇はしながらも、思い切って前科一犯と書いて出した。ところが、これを見た教務課の係員が呆れ顔に、僕の顔を見詰めて、これでは文部省へ出すのに困りますといった。至極もっともなことではあるが、さりとて、正直な風をして、その実嘘を書いて大学や文部省を欺いては、教員は勤まらぬ、もしこの罰が祟って採用できぬというなら、それももっともで、なにも不服をいう廉はないと、答えたら、係員は不承不承な顔をして、とにかく、一応お預かりしますといって、受け取った。それから、どうなったか知らないか、その大学の講師は勤めて、別に文部省から叱言があったとも聞かぬ、こちらからもあえて尋ねようとしなかった。

 しからば、その前科というのは、どんなことかというと、もちろん自慢すべきことではないが、若い人のなんらかの参考ともなろうと思うから、恥を忍んで懺悔するが、それはずっと昔、僕の若い、生意気ざかりのときで、しかも法律の習いたてのときであった。

 ある年の冬、麹町の平河町、旧の華族女学校の向う横町である。あの辺は、東京の他の部分と異なり、たいした変りはないから、今もあの辺を通る度に思い出すのであるが、甚だ尾籠な話で恐縮するが、尿を催したから、路傍の雪の上に放射した。白い雪の中へ、黄色い水が溶け込んで、だんだん跡を深くするのを、子供のような気持ちでぼんやり見ておると、後ろからおいっと来た。はっと思って振り返ると、まがうかたなき警官だ、相当な年輩で、物柔らかに不心得を詰問された。いまから考えると、良い警官であったが、当時の僕としては、そんな考えなどはてんで頭にない。巡査がなんだという気で、それに習いたてのほやほやの法律が頭の中にある。天下の大法律家気取りである。それでなくともたださえ理屈をこねたい年頃のところへ、法律をもって、ひとつ、遣り込めたく思っておるところへ警官だ、相手にとって不足なしである。

 全くもって、今から考えると、冷汗が出るが、そのときの僕は、意気軒昂だ。なにが悪い、罪は成立しない、と抗弁した。ずいぶん無茶な話だが、これには、こんな理屈をこねたのだ。

 つまらぬ法律論であるが、しばらくご辛抱を願いたい。 僕は小便したことは相違ないが、注意せられたから途中で止めた。つまり半分しか放尿しないから、これは舛錯による未遂犯だ。違警罪の未遂犯は処罰せない。こういう屁理屈である。もちろん理屈にもなんにもなっておらぬ、言語道断な弁解である。その議論の筋の通らぬばかりか、熟語自身も今の法律家にはお解りにならないだろうから、これも説明する必要がある。違警罪というのは今の警察犯の前身である。舛錯による未遂犯というのは、実行未遂(缺効犯)のことである。

 巡査はあえて深く議論しようとはせず、僕の住所氏名年齢から学校の名を聞いたから、これを答えて、巡査を遣り込めたつもりで、意気揚々として帰った。

 しかるに数日後に、警察署から一通の書面が届いた。前日の問題ではあるまいと訝りながら披見すると、やっぱり右の事件だ。 何々警察署長の名で、放尿の罪と認め違警罪即決例により、科料二十銭に処すとあった。これを読んだ僕は、怒髪冠を衝いた。なんたる無学の警官連だ、正式裁判の申立をして彼等の蒙を啓いてやらねばならぬ。これは僕一個人の感情の問題ではない、法律の権威のためであるといきまいた。もちろんこれも、習いたてのほやほやの法律知識ではあるが、主観的には先天的の大法律家だと信じ切っておるのだから手が着けられぬ。

 僕の憤慨を聞いた叔父が、その訳を尋ねたから、堂々として、その所信を披瀝(?)すると、なんだ馬鹿なと一喝された。なぜ最初、お巡りさんに注意せられたときに、おとなしく謝らなかった。詫びさえすれば、問題にもならなかったものを、生兵法大怪我のもととは、お前のことだ。そんな法律論なんか三文の値打ちもない、と、こきおろされて、大法律家も形なしである。それでも、なかなか屈する僕ではない。論戦大いに努めたが、形勢は不利である。ついに叔母の手から、右の科料を納めてくれて、僕は立派に前科者となったのである。

 当時は、けしからん叔父だ、余計なことをする叔母だと憤慨したが、今になって考えれば、これはもっともである有難い取計らいである。若気の過ちでつまらぬことをしでかしたものだ、とつくづく後悔しておる。若い諸君、僕がよい手本だ、よくよく注意したまえ。

リンク

 明治大学全国交友石川大会記念 尾佐竹猛著作展

Wikipedia 尾佐竹猛

 尾佐竹猛著作選

なお、このページは尾佐竹猛著作集(全24巻)および尾佐竹猛研究(志賀町図書館蔵)から引用しました。

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