戸坂潤

 

反戦を貫いた唯物論思想家

 

 

 戸坂潤は里本江の戸坂林造の長女くにの子として明治33年9月27日東京神田に生まれた。

母親が多忙で病身なため、里本江の祖父母の元に預けられ、5歳までを過ごし、その後は祖父と共に粟津の馬政局に移ったが、学生時代も社会人になってからも折々富来を訪れている。

大正11年23歳で京都帝大に入学し哲学を専攻。卒業後は大谷大学、神戸商大、法政大学などの講師として哲学・経済学を教えた。

 

  

 昭和7年に同士と共に唯物論研究会の指導者となった。

昭和9年に思想が不穏当と言うことで法政大学講師を免職となってからは、著述に専念する。

昭和12年日中戦争勃発と共に反戦左翼運動の弾圧が強くなり、禁筆令にかかって昭和13年には唯物論研究会が弾圧を受けて検挙された。

昭和15年に保釈されたが、19年8月に再び入獄。20年8月9日に終戦を待たず、長野刑務所で獄死し、46歳の生涯を閉じた。

 

 昭和11年に東増穂小学校から頼まれて校歌を作詞したが、15年に作者の経歴と歌詞の一部が不穏当と言うことで廃止を命ぜられ、終戦まで歌われずにいたが、戦後復活し、49年の増穂小学校への統合まで歌われた。

1.高爪山に風をよび 増穂の海に潮たかき わが故郷は父母が 鍬うちこめし土にして 鍬打ち込めし土にして

2.枝はたわめどアカシアの いばらのとげを君知るや くる日を待ちてこの庭に 雄たけびあげる童あり 雄たけびあげる童あり

3.砂の丘にも花咲きて はまなす色のいやこきは 来る日を待ちてこの窓に 希望を語る乙女なり 希望を語る乙女なり

4.みぞれの音のさ中より 春は息吹はくごとく われらが庭にわが窓に 郷土の文化もえいでよ 郷土の文化もえいでよ

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