坪野哲久(てっきゅう)

 

志賀町高浜町生まれの生涯にわたって反骨を貫いたプロレタリア歌人

 

明治39年9月1日高浜町大念寺に坪野次六、よねの6子として誕生

大正8年  高浜尋常小学校卒業

大正11年 長野県松本教育実業学校入学、準教員免状取得

大正12年 上京、働きながら英語学校に通う。

        関東大震災に遭遇し、帰省。北陸銀行高浜支店に就職

大正14年 東洋大学入学。「アララギ」入会。島木赤彦の指導を受ける。

昭和2年 合同歌集「冬月集」刊

 

昭和3年 「短歌戦線」創刊

 

昭和4年 東洋大学卒業

   東京ガス人夫 として働くが馘首

能登物情

  

  暴風あとの海べに人らつどひゐて流れ来し魚を拾うかなしさ

 

寥心 

 

  吾が庭の梅の熟実はおちむとす夕べはせつに人の恋しき

昭和5年 小林多喜二「蟹工船」などを出版したプロレタリア系の出版社戦旗社に入社 「九月一日」刊

 

 手元が暗くなったぜ帰ろうぜこれっぽちの金じゃ働きすぎらあ

 

 お神さんの亭主は電気屋おれは瓦斯屋炎天の工事のつらさも分かる筈よ

 

 にらまれてゐると知ってもやらにゃならぬ組織をもたにゃ勝てぬのだ

 

昭和6年 新潟出身の山田あきと結婚 (以下は山田あきの歌)

 

  生きて来しあえぎしずまる息のそと雪げにぬるるかたかごの花

 

  腹の子の胎動たしかなればこころ強し汗したたらして焼鳥焙る

 

  心弱きわれは女か帰り来て火鉢の灰に涙おとしてをり

 

夏に検挙され執行猶予となる。東京ガス社外工として働くが再び検挙される。

昭和7年 東京ガスのストライキ中に喀血

 

昭和10年 練馬街道に焼鳥の屋台を出す

 

 臓物串に刺す業も倦きあきだ秋雲見ればみたで苛立ってくる

 

 

昭和11年 歌誌「鍛治」を創刊

 

昭和12年 長男荒雄生まれる

 

 人の親はかくも愚かに胸わくかまだ土踏まぬ子の足の温かさ

 

 

昭和13年 母危篤 能登に帰る

 

 家ゆきてあくなき母の顔をみん能登の平に雪あかねすも

 

 死にゆくは醜悪を超えてきびしけれ百花を撒かん人の子われは

 

 さざれ雲わき立ちにけり能登の海の朝凪のいろさながらに愛し

 

昭和14年 「能登作品」 「百花」刊、日本放送出版教会に就職

昭和16年 胸部疾患再発 自宅療養

 

昭和17年 治安維持法違反で検挙。留置中喀血し仮釈放され保護観察下に

 

  征でむかふ若者のいのちおそれつつ慎みをもて国統(す)べたまえ

 

  胸元に銃剣突きつけられても怯まぬかああ今のおれは怯むと思ふ

 

  泣きいさつ能登のわらべやわがわらべ胸にひびきて離れがたくす

昭和20年 治安維持法起訴猶予になる

 

昭和22年 「一樹」刊

 

  春潮のあらぶるきけば丘こゆる蝶のつばさもまだつよからず

 

昭和30年 赤旗歌壇の選者となり、10年間継続する。

 

昭和35年 安保闘争に参加。胃潰瘍手術

 

昭和47年 「碧眼」にて読売文学賞受賞

 

昭和63年 逝去 82歳

 

 坪野哲久文学記念館  

 

  〒925-0156 石川県羽咋郡志賀町矢蔵谷ム1−167

  入館無料 管理者 0767-32-5646

 

 哲久の甥であり弟子でもある若狭駿介氏が設立。哲久の本や貴重な自筆の原稿が収められている。

 

 坪野哲久歌碑  (日本海の夕日が美しい千鳥ヶ浜にて)  

 

 

  母のくににかへり来しなや炎々と冬涛壓(お)して太陽没む

 

 

 

 坪野哲久、山田あき歌碑  (志賀町図書館横)  

 

  蟹の肉せせりくらへばあこがるる生まれし能登の冬潮の底

 

 きみとみるこの夜の秋の天の川いのちのたけをさらにふかめゆく

 

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