福浦湊の絵馬

福浦湊は北前船の要港であった。そのため海の守りの金刀比羅神社と猿田彦神社には多数の絵馬が

所狭しと奉納されている。いずれも芸術性が高いだけでなく、当時の状況が手にとるように伝わってくる。

志賀町の文化財に指定されている金刀比羅神社29面、猿田彦神社31面、合計60面の内、主要なものに

ついて「福浦ものがたり」(瀬戸松之ほか著)を参考に紹介する。                                   

 

 金刀比羅神社

 

 猿田彦神社

 文久2年(1862年)福浦湊の図

  福浦港を沖から眺めたもので、当時を物語る記録的風景画。 

  特に由緒ある灯明台を右側に大きくのせ、左側には広重が描いた不動滝、巌門、鷹巣岩、碁盤島も構図に入れ、北前船の入港客が小船で遊びに行く様など、福浦港の繁栄ぶりが描かれている。

 

慶応4年(1865年)難破船曳航の図

  伏木桶屋船天神丸が嵐により一本柱を折られ帆共に飛んで行き漂流していたところ、後から航行してきた美川町の上野屋船利天丸が福浦湊へ曳航して全員が助かったことを感謝して奉納されたもの。  

  大波や北前船の様子が生々しく、色使いも美しい。日本の版画絵がゴッホなどのヨーロッパの印象派に大きな影響を与えたと言われているが、納得。

明治20年難破船の図

  芸術性が高い上に、嵐の状況が克明に描かれているため、この複製画が大阪市立博物館や外国の書籍など多数紹介されている名絵馬。

  海難にあった乗組員たちは、帆を引き下げたり、錨を下ろしたり、積荷を投げ捨てたり、バランスをとって生きるためのベストを尽くした様子が生き生きと描かれている。

 

  明治11年魚類の図

  奉納者は喜宝丸三郎兵衛とあるが、福浦には見当たらぬ船や人名である。

  北の海に多いイカ、タコ、カニ、エビと、骨のない特異な魚類が描かれており、これらの大漁を願ったものか、寄進者の好物なのか、珍しい絵馬である。

安政7年(1860年)北前船の図

  60面のうち、34面と多いのがこの構図であり、荷物を満載して順風満帆に航海する姿は、船主や船長にとって一番望ましい状況であろう。

  帆は後方からの風に対してのみ有効であり、風下にしか航行できないため、福浦が風待ちの港として活躍したものと思われる。

 

 安政六年(1859年)北前船の図

  側面、舳先、船尾が描かれ、当時の北前船の構造が良く分かる。

  船首の水押が長く突き出し水切りがよく、帆走性の高い平在型。基本構造は航(敷・丁)と呼ばれる厚い船底板を基盤とし、それに加敷・棚という幅の広い板を組合わせて外廻りをつくり、内側に多数の船梁を入れて船体に強度を持たせた構造船

 明治27年北前船の図

  北前船の終盤である明治中期になると三角帆が採用され、少しは風上に向かっても航行が出来る構造に変わっている。

明治25年 西洋帆船の図

 明治30年以降になると洋式帆船や蒸気船が主流になり、北前船は姿を消していった。

 奉納図からすると、西洋帆船が福浦に明治25年に来たと言う事であり、北前船の奉納図も上記の明治27年が最後というのも時代の変化を如実に表している。

 明治3年 船舵模型額

  珍しい船舵の貼り付け額。

船の航行のためには一番大切な舵を奉納することで、航海の安全を祈念したのであろう。

 明治15年 船模型額

 これも珍しい船模型の貼り付け額。

 

 

こんな絵馬も奉納されています。

 

慶応4年 源頼光の図

 

鳥羽伏見戦図

 

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