キリシタン大名 高山右近 

なぜ、高山右近の像が志賀町にあるのでしょうか?

右近は金沢城を直し、高岡城も設計していることを知っていますか。

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志賀町末吉に高山右近記念公園があり、

高山右近像建立されています。 

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とても小さくて読めないので、下に書きます。

 

  キリシタン大名・高山右近は、天文21年(1552年)摂津高山で、高山飛騨守友照の長子として生まれ、永禄7年(1564年)12歳の時、イルマン・ロレンソより受洗、洗礼名は「ジュスト」と名付けられた。

 天正元年(1573年)21歳で高槻城主となり、キリシタン大名として名を世に轟かせた。

 また、千利休七哲の一人として知られている茶人であり、詩人でもあった。

 更に、金沢城の修復、高岡城の設計などに尽力した建築家であり、徳川家康が右近の手兵1千を、他の将の1万の兵より恐れると認めたほどの戦術家でもあった。

 しかし豊臣秀吉のバテレン追放令により武将の地位と禄を奪われ、天正16年(1588年)、加賀藩前田利家に預けられ、さらに慶長19年(1614年)には、徳川家康のキリシタン禁教令によって、妻子共にルソン島マニラへ追放された。

 マニラでは聖人・殉教者として歓迎されたが、まもなく熱病のため倒れ、慶長20年(1615年)63歳で聖なる一生を終えた。

 

 妻子もその後を断ったものと思われていたが、実際には志賀町代田と大分県萩原にその子孫が残っていることが記録されている。

 萩原にある享和2年(1802年)の碑文には、右近の次男亮之進を大友候が匿い、加賀には長男十次郎の子孫がいると記されている。

 代田の高山家には高山節庵の画像が代々受け継がれており、その賛文には右近の子孫であることが記されている。

 家伝に依れば、マニラから帰国した右近の孫の一人が、知行地であった志賀町末吉に腰を落ち着け、その子孫は代々医者(通称「ジンザ医者」と呼ばれていた)をしていたが、キリシタンゆえに数々の迫害と種々の屈辱にあったことから、一時北海道に移住し、信教の自由が許された大正の初めに能登の田鶴浜に住み、その後現在の代田に定住したのである。

 

  高山右近をしのぶ会・志賀

右近の像の近くに「高山右近の碑」

への登り口があります。

山の中にひっそりと十字架が佇んでいます。

「高山右近の碑」

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右近はどこを向いているのでしょうか。 

リンク

 

  右近の先祖、家族、子孫

 

  末吉城跡

 

  WIKIPEDIA(百科事典)

 

  加賀と能登の教会

 

  キリシタン料理(高岡にも像があるのですね)

 

  高山右近研究室

 

  キリシタン殉教史跡(金沢にある像)

 

  高槻市にある右近像

 

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