核燃料サイクル20年の真実

 

<著者>塚原 晶大(つかはら・あきひろ)電気新聞記者。

 建設・電気工事業界担当、エネルギー・原子力・環境行政担当を経て、現在、電力業界を担当。

著書に「エネルギー・マネジメント」、「原子力ルネサンスの風」(いずれも共著、電気新聞刊)。

<発行> 2006年7月 日本電気協会新聞部

  

概略

 核燃料サイクルはアメリカの核拡散政策のブレによって大きく影響されたが、国・事業者・地元青森県が一体になって取組むことによって、国際的にその必要性が認められた。

経済的にはワンススルー政策(再処理せずに埋める)のほうが合理的とも言われてきたが、ペットボトルなどと同じで、安いからリサイクルするのではなく、ゴミを資源として有効活用し廃棄物を減らすこと、プルトニウムが軍事転換されないよう減量化を図ることを目的とすべきであり、ワンススルーを採用していたアメリカも転換しつつある。

さらには、資源価格の高騰から、再処理が経済的にも必要とされるようになって来た。

アクティブ試験が開始されているが、エネルギーをめぐる大きな国際政治の流れの中で、日本が自立していくためにも早急な核燃料サイクルの確立が望まれる。

 

年表

1945年〜1953年 アメリカは核技術の独占を目指す「閉じ込め政策」

1954年 アイゼンハワー大統領による「アトムズ・フォー・ピース」演説で「開放政策」に。

1977年 カーター大統領プルトニウム利用の凍結政策発表。再び「閉じ込め政策」が30年続く。(失われた30年)

1980年 ウィーンでのINFCE(国際核燃料サイクル評価)で日本の核燃料サイクル路線の必要性が認められる。

1981年 鈴木首相とレーガン大統領による共同声明「東海再処理工場の運転合意」

1984年 青森県と六ヶ所村に電事連が「三点セット」の立地申入れ

1985年 青森県、六ヶ所村、日本原燃が「原子燃料サイクル施設立地への協力に関する基本協定書」締結

1993年 再処理工場着工

2002年 燃料貯蔵プールでの不良溶接291箇所確認。品質保証と情報公開の徹底。

2003年 エネルギー基本計画

2004年 原子力開発利用長期計画で核燃料サイクル政策維持。青森県、六ヶ所村、日本原燃が安全協定調印。ウラン試験開始〜2006年。

2005年 アメリカで包括エネルギー法が成立。原子力発電の再開、核燃料サイクルの開発へ

2006年 再処理工場アクティブ試験開始