原発・正力・CIA

 

著者:有馬哲夫 1953年生 早稲田大学第一文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。1993年ミズーリ大学客員教授。現在、早稲田大学社会科学部・大学院社会科学研究科教授(メディア論)。著書に『中傷と陰謀』『日本テレビとCIA』など。

 

発行:新潮社 2008年2月20日

 

 [概略]

正力はメディアを一挙に手中に入れるためマイクロ波通信網を構築しようとし、アメリカも共産主義勢力に対抗するためCIAを中心として正力を応援した。正力はそれを実現するために、衆議院議員となりさらには総理大臣を目指した。

1924年 読売新聞買収

1953年 日本テレビ放送網株式会社開局

1955年 衆議院議員当選

その頃に、アメリカの原子力平和利用政策への転換があり、正力としても原子力発電を手に入れれば財界と政界に大きな影響力を持つことが出来ると考え、メディアを活用してキャンペーンを行った。アメリカとしても原水禁運動や第5福竜丸被爆事件による反米感情を抑えるためにも原子力平和利用キャンペーンを張る必要があった。

1953年  5月原水禁運動始動、3000万人もの署名を集め戦後最大の反米運動に

1953年 12月アイゼンハワー大統領「アトムズ・フォー・ピース演説」平和利用への転換

1954年 読売新聞が原子力平和利用をテーマに「ついに太陽をとらえた」の連載開始

1954年 第5福竜丸事件 アメリカは平和利用と並行に軍事開発を進めていた。

1955年 米原子力平和使節団来日「原子力平和利用懇談会」設立「原子力平和利用博覧会」開催

1956年 総理府原子力委員会発足 正力が初代原子力委員長に就任

1956年 英からJPDR(コールダホール型原子炉)導入を表明(1963.10.26発電開始 原子力の日)

 

[感想]

富山生まれの正力松太郎氏は読売新聞社や巨人軍のオーナーとは知っていたが、原子力の父だったとはこの本を読んで始めて知った。無知蒙昧を改めて恥じるところです。

プロ野球、ディズニーランド、柔道振興、原子力推進など、正力氏がおられなかったらどれもかなり実現は遅れていたことだろう。正力氏が総理大臣になるために原子力平和利用に取り組んだとあるが、資源のない日本は原子力平和利用により立国していくべきだという強い信念の基に強力に取り組まれたのだと思う。自分の為もあったかも知れないが、日本はかくあるべしと言う大きな夢を描き、それを自ら実現していく強い意志と実行力に大いに学びたい。

 

[参考(正力松太郎をWikipediaで検索)]

 

[人物]

読売新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。

日本に於ける導入を推進したことで、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる。

 

[編集] 年譜

明治18年(1885年4月:富山県射水郡大門町(現射水市)に土建請負業を営む父・庄次郎、母・きよの次男として生まれる。

明治32年(1899年)4月:旧制高岡中学(現富山県立高岡高等学校)入学。

明治37年(1904年)9月:第四高等学校入学。同級生に河合良成(小松製作所会長)、品川主計(読売ジャイアンツ代表)など。

明治39年(1906年:三高との高専柔道の対校戦に優勝。この時、団体戦で四高は三高に押されて負けムードが漂っていたが、大将である正力が巴投で二段の相手から逆転の一本勝ちをし、四高は優勝した。なお、この時正力自身は白帯だった。

明治40年(1907年)7月:東京帝国大学法科大学独法科入学。河合、品川のほか、重光葵(外相)、芦田均(首相・外相)、石坂泰三(経団連会長)などが同級。柔道に打ち込んだ。

明治44年(1911年)7月:東京帝大卒業。 内閣統計局に入る(同郷の南弘の推薦による)。

大正元年(1912年)11月:高等文官試験に合格。

大正2年(1913年)6月:警視庁入庁、警務部警務課勤務。警視総監・安楽兼道の義理の姪にあたる前田布久子(鹿児島出身)と見合い結婚したが一女をなしてまもなく亡くなる。その長女は8歳で早世した。

大正3年(1914年)6月:警視に任官、日本橋堀留署署長。

大正4年(1915年):吉原波満と再婚。

大正6年(1917年)2月:牛込神楽坂署署長。 9月:警視庁第一方面監察官。

大正7年(1918年)10月:米騒動鎮圧の功により従六位に叙せられる。

大正8年(1919年)6月:警視庁警務部刑事課長。

大正10年(1921年)6月:警視庁官房主事。7月:正六位。兄定吉方より分家して一家を創立する。

大正12年(1923年)9月:関東大震災において「朝鮮人暴動の噂」を流布させる。昭和19年(1944年)、警視庁での講演で、この虚報を「失敗だった」と発言(石井光次郎著『回想八十八年』)。

10月:警視庁警務部長。虎ノ門事件。

大正13年(1924年)1月:虎ノ門事件を防げなかった責任を問われ懲戒免官。直後、摂政宮(のちの昭和天皇)婚礼により恩赦。読売新聞の経営権を買収、社長に就任。

昭和3年(1928年):京成疑獄事件に連座、禁固4ヶ月、執行猶予2年の判決をうける。

昭和9年(1934年):大リーグ選抜チームを招聘、巨人軍創立。

昭和10年(1935年)2月:読売新聞社前で暗殺未遂。首を斬りつけられ重傷を負う。

昭和19年(1944年)5月:貴族院議員に勅選される。 10月:小磯内閣顧問。

昭和20年(1945年)10月:第1次読売争議。12月:A級戦犯に指定され、巣鴨拘置所に収容。

昭和21年(1946年)1月:公職追放

昭和22年(1947年)9月:不起訴、釈放。

昭和27年(1952年)10月:日本テレビ初代社長に就任(1955年まで務める)。

昭和28年(1953年)8月:日本テレビ放送網本放送開始。

昭和30年(1955年)2月:富山2区から衆議院議員選挙に出馬、当選。11月:第3次鳩山内閣で北海道開発庁長官兼原子力委員長。

昭和31年(1956年)5月:科学技術庁設置により初代長官。

昭和32年(1957年)7月:第1次岸内閣改造内閣で科学技術庁長官兼国家公安委員長。茨城県東海村で日本初の原子炉稼動。

昭和36年(1961年):武道会館建設議員連盟会長。

昭和37年(1962年):財団法人日本武道館初代会長。駒澤大学より名誉博士号を授与される。

昭和39年(1964年):勲一等旭日大綬章を受章(没後、旭日桐花大綬章追贈)。

昭和40年(1965年)6月18日:高岡市名誉市民。6月26日:大門町名誉町民。

昭和44年(1969年)10月9日:国立熱海病院で死去。柔道八段から十段に。

 

[警察官僚時代]

警視庁官房主事として大正12年(1923年)6月の日本共産党第1次弾圧や、同年9月の関東大震災に乗じた社会主義者弾圧を指揮した。直後、警務部長となるが、摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)の責任を問われ、懲戒免官となる。恩赦により懲戒処分を取り消されたものの、官界への復帰は志さなかった。

 

[新聞経営]

大正13年(1924年)、番町会グループである郷誠之助、藤原銀次郎ら財界人の斡旋と、帝都復興院総裁だった後藤新平の資金援助により、経営不振であった読売新聞社の経営権を買収し、社長に就任した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。

 

[大リーグ招聘]

昭和9年(1934年)、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらが参加したアメリカ大リーグ選抜チームを招聘した。アマチュア野球しか存在しなかった日本側でも全日本チームが結成された。後に同チームを基礎として大日本東京野球倶楽部(現讀賣巨人軍)が創設され、昭和11年(1936年)の第1回職業野球日本リーグに参加した。

正力は最初期と戦後の一時期を除いて巨人軍のオーナーを務め、また、巣鴨プリズンから釈放後の一時期、職業野球連盟の総裁(今で言うコミッショナー)に就任した。このような正力の業績を称え、日本プロ野球界に貢献した関係者を対象に、毎年正力松太郎賞が贈られている。

 

[襲撃事件]

昭和10年(1935年)、本社玄関前で暴漢に左頸部を斬りつけられ重傷を負った。直接の実行犯の長崎勝助は右翼団体武神会の構成員(元、警視庁巡査)。取調べに対して、犯行に及んだ理由として、読売新聞が天皇機関説を支持したこと、正力が大リーグを招聘し、神宮球場を使用し「神域を穢した」ことなどを挙げた。だが、捜査・公判の進行により、競合他社東京日日新聞の幹部による指示があったとされた。

 

[遺訓]

正力は巨人軍に対して、巨人軍憲章とも呼ばれる遺訓を残している。遺訓は以下の3つ。

巨人軍は常に紳士たれ

巨人軍は常に強くあれ

巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ

 

 [系譜]

正力氏

正力という姓は嘉永年間に庄助が発案した鉄の金輪・正力輪から始まっている。この金輪は河川の氾濫で流れた古橋の抗を抜くための道具として効力を発した。庄助の一族は代々一介の庶民に過ぎなかったが、発明の功労により加賀藩奉行から苗字帯刀を許され「正力氏」を名乗るようになり、地元の名門として名をなした。