電灯の普及

 

 

 

 明治11年3月25日に日本で初めてのアーク灯が点灯し、電気記念日とされている。一般家庭への電力供給は明治20年に東京電灯によって開始され、北陸においては明治26年10月に名古屋電灯が金沢市の戎座で出張点火した。翌明治27年に富山市博覧会場で密田らが点灯し明治32年に富山電灯を開業した。

 

 資本金5万円、役員は磯又三郎社長、末吉源太郎専務、重役に石田半次郎、浜辺半七郎、榊原長四郎、石田作一

 明治43年に七尾電気(株)が電力を起こし、45年には中島村に発電所が設置されるや、富来・羽咋間の自動車路線を営業していた磯又三郎が自動車営業の免許を柴野氏に譲り、大正6年4月に富来電気株式会社を設立し364戸に電灯を灯した。

 50馬力のディーゼル発電機を輸入し、東京芝浦から羽咋まで貨車積み、羽咋から赤崎まで船積みした。荒木海岸のコメツンバで下ろすときに、フライホイールを海中に落とすという失敗をしたという。

 

能登電気(株)高浜支店

 高浜地区においても岡部グループが中心となって大正7年8月25日に高浜電気(株)が設立され、高浜町、中甘田、下甘田村に電灯を灯した。記録によると、翌8年末の従業員4名、電灯引用戸数466戸、灯数759、外に街灯2、総燭力7995kWであった。これからすると10W程度のぼんやりとした明かりだったようだ。

 大正9年1月には七尾電気(株)、輪島電気、志雄電気と合併して能登電気(株)となり、昭和3年には富山電気と合併し日本海電気となった。

 

昭和9年 富来変電所開設記念

 大正10年に富来電気(株)は和倉電気(株)、中島電気(株)、穴水電気(株)、小松電気(株)能登支社と合併し能州電気(株)となり、社長に磯又三郎が座った。

発電所はなく、金沢市電気局増泉変電所より中島変電所に送電され、各戸に配電された。

昭和3年には高岡電灯(株)に併合され、同社の能州支社となる。昭和9年には中島〜富来間の送電線が新設され、高田に300kVAの富来変電所が新設された。

家庭に配られた電灯の

販売促進チラシが面白い

電灯必要の声高し

(警察曰く)

暗くては通行不便だ。それだから人通りがない。

人通りが無いから商店も売買が無い。

その上不便だ。お互いに公益のため外灯内灯を奨励する必要がある。

電灯デー

4月1日より15日まで

1.外灯普通器具5円のところ3円50銭に値引き徴収

1.外灯の取付料は無料、点灯料は取付後10日間は申し受けず

1.○○の申し込みに対しては特に半ケ月間の料金を無料

 

お婆さん曰く

お寺参りで漸く未来が明るくなったが、お寺参りの道中の暗いのに困ります。近頃流行るレンキとか言うものが早くつけばよいのに・・・・

 

按摩曰く

明るい暗いに不便は無いが、時々目明きどもの突き当たるのに全く危険だ。

 

昭和5年から9年にかけて農村は深刻な恐慌に見舞われ、昭和7年には末吉の河野登喜雄を指導者とする「電灯料金不納同盟」が結成され、日本海電気(株)羽咋営業所へのデモ行進や交渉が行われ、「電気料金値下げはしないが、今までの不納分、滞納分の料金は取らない」という譲歩を引出し、昭和8年8月に収拾された。

当時は16Wの電灯の定額料金が1ヶ月75銭で、白米5升が変える値段だったそうです。

  昭和16年には企業合同令により日本海電気(株)、高岡電灯(株)、小松電気(株)など12社が合併して北陸合同電気(株)となり、昭和17年に北陸配電(株)に、そして昭和26年に北陸電力(株)となった。

昭和42年に原子力発電所の建設計画が発表され、平成5年7月に志賀原子力発電所1号機が、平成18年3月に2号機が運転開始した。主要経緯