志賀町の歴史

 

 

志賀町は日本列島を扇にたとえれば要の位置にあり、北海道から九州にいたる日本各地はもちろん

ユーラシア大陸との交流の基点であった。今後更に各地へのゲートウェイとしての発展を期待したい。

旧石器時代以前

 

地球の誕生から能登半島の形成まで

縄文式時代-10000

 

堀松貝塚、堂が谷内遺跡、福浦ヘラソ遺跡、酒見新堂遺跡

弥生式時代 -300

 

 北吉田米町川底遺跡、福野前川遺跡、上棚中村遺跡、倉垣加茂遺跡

古墳時代 300〜

 

丸山古墳など多くの古墳があることから、大きな村が形成されていたと思われる。

飛鳥時代 592〜

九州志賀島の阿曇氏が志賀町安津見に流れついたのが志賀町の謂れ?

 

九州の志賀島を紹介します。

奈良時代 710〜

727〜919渤海国交流を通じて志賀町福浦は日本の玄関だった

平安時代 794〜

 

能登国羽咋郡に8郷が置かれ、加茂庄は京都の上賀茂神社の所領だった。

 

志賀町には頼朝の追っ手から逃れて奥州に向かう数多くの義経伝説が残っている。

鎌倉時代 1185〜

 

 鎌倉から室町には、先祖の供養のために梵字が刻まれた板碑が数多く建てられた。

室町時代 1392〜

肥前(長崎県)の船持武太夫の息子が乗った船が大島沖で難破したが、その供養のため肥前から石を運び諸願堂を建てた。

 

得田氏は郡内屈指の武士団を形成し、吉見氏や畠山氏、さらには加賀藩年寄長氏の家臣として存続した。

戦国時代 1491〜

 

 南北朝の戦いにおいて、富来彦十郎俊行らは南朝に組して木尾嶽城で戦った。

 

守護大名畠山義統は能登国を防衛するため末吉城を完成させた。

江戸時代 1603〜

 

志賀町福浦は北前船の港として大いに栄えた。

 

 

若狭の国 高浜、小浜の漁師が大念寺新村(今の高浜町)で開村し、飛躍的に発展させた。

明治時代 1868〜

 

山田文右衛門を初め、志賀町から北海道に渡ったパイオニアたちは、努力と工夫により北海道の発展に大いに貢献しました。

大正時代 1912〜

 

羽咋〜三明間に能登鉄道が開通

 

 

 志賀町に電灯が灯る

昭和時代 1926〜

 

 

平成時代 1989〜

 

現在の志賀町が誕生

 

 

志賀原子力発電所が運転開始