北海道移民

 

 

志賀町から北海道に渡ったパイオニアたちは、努力と工夫により北海道の発展に大いに貢献しました。

 

  北海道の本格的な開拓が始まったのは明治になってからですが、石川県では熱心に移民が奨励され毎年約1,000戸4000人が渡島し、特に稚内市の5割近くが石川県出身者で占められるそうです。

 北海道開発の県別出身者数では6位、屯田兵は1位 

 

利尻島

  志賀町からも明治20年代から盛んに移民が行われました。

 百浦から厚岸町、大島から留萌市および利尻島、高浜・宿女から礼文島など全道に渡って移住しています。特に礼文島の浜中は「能登町」と言われるほど能登衆が固まっているそうです。

   『北海道「海」の人国記』には江戸から明治にかけてのパイオニア70余名が紹介されていますが、石川から渡島して活躍した二人が紹介され、どちらも志賀町出身とは驚きです。

 安部屋出身の村上伝兵衛と神代出身の山田文右衛門はどちらも努力と工夫によって財を成すと共に、アイヌも含めた地元民にも尽くし、地域の融和と発展に大変な功績を残しています。

村上伝兵衛の彦久丸

  村上伝兵衛は天和3年(1683)に安部屋村で生まれ18歳で北海道に渡りました。松前藩船頭役の古谷勘左衛門の娘れんを養母として松前に住み、宝永3年(1706)23歳で石狩地区の場所請負人(ある区画を管理し生産・交易の権利を有する)になりました。

  伝兵衛は故郷の名を取って「阿部屋」と号し、なまこを取るのに「ハッシャク」と言われるものを工夫したり、船体の安全性を高めると共に積載量を増やす「カキタツ」を付けたりと創意工夫し、五艘の船の回船問屋を営むまでになりました。

 

村上伝兵衛から安部屋西念寺に

寄進された七条袈裟

 三代伝兵衛は二百石船を2艘作り、樺太、国後の漁場探検を行い、天明二年(1782)には町奉行下代・町年寄りに任命され俸禄米20俵を賜る身分となり、日本長者鑑に載るほどの豪商として、その名声は広く伝わりました。 しかし寛政四年(1792)6月の台風によって持船22艘を流失するとともに、策謀によってすべての財産を失います。

 六代目が再興に務め石狩弁天堂を再建しました。(安部屋の弁天島に因んだのでしょうか。)

 村上伝兵衛の子孫のホームページを見つけました。

 

八代目山田文右衛門

 山田屋の初代市郎右衛門は寛永六年(1794)神代に生まれ、北海道に渡りました。

 二代目より文右衛門を名乗り、七代目は文化年間に石狩川周辺で鮭漁場を開くと共に定置網のような漁法を開拓して収穫を増加させました。

 八代目は岩石に乏しく昆布の繁殖が出来ない日高地区の沿岸に、万延元年(1860)に付近の山の岩石を海中に入れて実験した所、見事に昆布の根が付着したので、採石場を探すと共に石運搬船を五艘建造し、毎年3万〜7万の大石を投じて昆布場を開拓しました。これによって50石以下だった昆布の水揚げが6年後の明治元年には700石(105トン)と飛躍的に増加しました。

 

  日高が昆布の一大産地として名を馳せているのは、山田文右衛門の努力と工夫のおかげであり、150年余り前に投石事業を始められとされる門別の海を見下ろすように建つ門別稲荷神社には顕彰の碑が建てられ、その功績をたたえています。

 八代目文右衛門の弟寿兵衛も事業に力を入れて家運を盛り上げ、安政元年(1854)にペリーが箱館に来た時に、山田寿兵衛宅が箱館奉行らの会見の場として使われています。

 子孫が書いた『わが祖 山田文右衛門履歴』