木尾嶽城の攻防

 

 

 

 

 木尾嶽城は貝田地区の標高140mの城が根山(城が峰)5.4ヘクタールの敷地に築かれ、尾室城とも富来城とも呼ばれた。富来平原を一望するこの城の周辺には岡城、八幡館とともこの平原を制するにふさわしい陣立てであった。東は中島を通じて七尾に、北は稗造地区〜穴水を経て輪島に通じる交通の要衝でもあった。

 

木尾嶽城が築かれた城が根山

 14世紀半ばは光明天皇を擁した足利尊氏の北朝とその弟足利直義(後醍醐天皇)の南朝の戦いであった。南朝の勢力は微々たる物であり、実質は北朝を支える武士同士の争いであり、その関係は非常に入り乱れて複雑だ。

能登においてもその影響が及び、一族が別れて相戦っているが、それは骨肉相反する仲たがいと言うよりは、とにかくどちらかが生き延びて家名・所領を保持しようと言う一族一家の存亡を掛けた必死の取り組みだった。

 

得江頼員軍忠状

 木尾嶽城でも三回の攻防が繰り返された。

貞和二年(1346) 木尾嶽城に籠った井上俊清(前年まで越中守護であったが桃井直常に攻められ敗退)、井上八条、新田貞員、栗沢政景、富来彦十郎俊行らを吉見氏頼(能登守護頼隆の子)に率いられた得江頼員・長野季らの能登の地頭が攻めて5月4日に落城した。

 

この山道の奥に山城が築かれていたのだろうか

 観応元年(1350)10月 足利直義は南朝に頼って尊氏に対抗しようと兵を挙げたが、越中守護桃井直常はそれに呼応して越中から尊氏党の能登(守護は桃井盛義)に侵入しようとした。木尾嶽城に籠っていた井上布袋丸や富来彦十郎俊行らは、直常軍に合流するため鹿島郡花見槻に打って出た。

康安二年(1362) 南朝方の桃井直和(直常の子)が越中に蜂起し石動山で能登の武家方と戦うが、能登の南朝方(守護は吉見氏頼)も富来院の木尾嶽城に再び籠った。しかし5月16日に富来斎藤次以下討ち取られる。

 

 天正四年(1576)10月 七尾城を攻めあぐねた上杉謙信は富来城に藍浦長門を、熊木城に斎藤帯刀を、穴水に長沢筑前、甲山城に平子和泉、正院城に長与市景連を配して戦ったが、翌年に兼信が越後に帰国すると長綱連ら畠山氏諸将は七尾城を出て攻勢に転じ富来城も落城した。

天正九年(1581)3月 織田信長が能登を領有し管屋長頼・前田利家・福富行清の三人に知行し、福富は富来に住んだ。しかし、8月には前田利家一人が能登一国を知行し、本能寺の変で福富は信長と死をともにしたため、富来城の再構築までには至らなかった。        富来町史より