得田城
戦乱を生き延びた武将たち
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能登は平朝臣知盛の知行国であったが、養和元年(1181)に能登の在地領主たちが襲撃し国衙(国主の代理者)を追放した。 その在地領主の名前として「土田の者共」が諸本に記されているが、土田庄に舘を構えていた土田氏、あるいは得田氏と思われる。 |
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羽咋郡得田保の地頭で鎌倉御家人でもあった得田氏は、郡内屈指の武士団を形成していた。 南北朝内乱期には北朝方の守護吉見氏に属して北陸の各地を転戦し、室町・戦国時代は能登守護畠山氏の被官となって中世400年の歴史を全うし、さらにその子孫は加賀藩の年寄長氏の家臣として存続している。 |
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舘開 得田城の舘跡に開かれた場所ということで舘開と名付けられており、かつての堀跡が用水として今も使われている。 日常生活の場であった館跡のほかに、武装して立て籠もった城跡が舘開小字赤坂地内の城山に残っている。 |
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鎌倉末期の正慶2年(1332)得田章通の次子が剃髪(出家)して祖生と名乗り、明峰素哲(永光寺二世)を招いて開創した。 |
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峨山往来(信仰の道) 南北朝時代の初め頃、永光寺(羽咋酒井町)と総持寺(輪島市門前)の住職を兼務していた峨山和尚が毎朝夕に両寺を往復していたと言われているが、道興寺はその中間地にあり、休憩地になっていたのではないだろうか。 近くの仏木では和尚の弟子が盗賊に会ったときに観音像が身代わりになったという伝承も残っている。 |