高浜町の誕生と発展

 

 

若狭の高浜から能登に移住した人々は高浜町を形成し、「天地人」を得て飛躍的に発展しました。

 

 

 慶長・元和の戦国時代より、若狭国の高浜や小浜の漁師が毎年夏に志賀町で漁業を営んでは冬に国に帰っていました。

 ところが寛永(江戸時代)頃になると小浜藩の漁師には「海成」という重税が課せられ生活が厳しくなったため、冬場も能登で漁を営み大島の百姓屋の納屋を借りて居付くようになりました。

 寛永9年(1632)には村建が許され、大念寺新村と名乗り12名が定住しました。

 

若狭釣舟の者共・・・河尻村渡舟の外辺に新村を相立て居住・・・御国役諸役など御免許・・新村並び候べし・・・            寛永9年 武右馬允

   小濱神社で発見された大念寺新村村立達し状

 若狭から来ていた介左エ門と助五郎は大島の播磨屋勘左衛門や沢田屋次郎兵衛の納屋を借りて漁を行っていたが、獲れた鯛をおしのびで遊びに来ていた藩候に献上した所大変喜ばれ、「何でも聞き取らすぞ」との言葉を賜った。チャンスと思って十村頭の助太夫に頼み込み、助五郎の女房の親である長三郎にも介添えして貰い、村立てを願って上記の許可を賜った。・・・そうな。

 ついでに諸税免除と言う特権も与えられている。

 

 承応2年(1653)に又右衛門は小浜青井の神明社に祭られていた神様の木像を貰い受け、大念寺新村に神明社を勧請し創建しました。

 また、権吉は小浜の檀家寺に行って山門の横に並んでいた板碑の六地蔵のうちの一体を貰い受け、天下町の権吉宅に安置され、「ごんちの地蔵様」として崇拝されるようになりました。

・・・先祖他国より来り候事に候えば、別して御国の御法度事等専一に相慎み・・・万一心得違候者、村祖に不忠千万・・・大念寺村の儀、本村の儀に候えば、親え孝を尽くすの道理に候。大切に致し・・・

 明暦2年(1656) 大念寺新村の肝煎(村の世話役)八兵衛は発展するにつれて、少しずつ心のおごりが生じてきた村人の様子が気掛かりでならず、遺訓を書き残しました。

「われわれは他国から来たが、この国の決まりを守りなさい。もしも決まりを破れば、忠義に反します。大念寺村は親村であり、敬い大切にしなさい。」

 しかし、次項のように力を蓄えるにつれて、親村の大念寺、対岸の川尻と利権を争うようになり、その争いは幕末まで続いたようです。 

 

 神代川口という地の利を得た大念寺新町は飛躍的に発展し、七尾、羽坂村、宝達村などの近郷からも一家を挙げて移住してくるものが現れ、戸数は当初の12戸から正徳2年(1712)には378戸にも達しました。

 持船も渡海船14艘、猟船23艘もあり、福野潟周辺の物資を加賀藩内のみならず日本海沿岸の港で売りさばき、しこたまもうける商人や船主が増え、神代川左岸には屋敷が立ち並びました。 

 天の時(交易に利のある時代)、地の利(物資を集めやすく搬出しやすい神代河口)、人の和(やる気のある人があちこちから集まった)を得て発展したのでしょう。

 

 明治6年(1873)に姓を百姓も町民も名乗れるようになり、若狭から来た人々は故郷をしのんで若狭、南、泉元、皆川、小林などを名乗るとともに、神明宮も故郷に因んで小濱神社と改称しました。

 明治20年(1887)には石川県知事に「町名ニ改称願」を提出し、町名も大念寺新村から高浜町と改称しました。 

 

 高浜町開祖の碑

 大正10年に、高浜出身の高瀬清太郎さんが、「高浜という町を日本中の人に知ってもらいたい、町の人に生きる誇りを持たせたい」という強い願いから建立されました。

 碑文を若狭高浜出身で鎌倉円覚寺管長の釈宗演禅師に、由来文を能登高浜町出身で東京控訴院判事の尾佐竹猛に依頼しました。

 碑石は西海村から船で運び、田中石工に刻ませ、高浜バス停近くの丘に据えられましたが、平成4年に高瀬氏の子孫によって高千代園跡地(川尻)に移設されました。                

 

福井県高浜町の若狭和田海水浴場

 平成2年(1990)11月3日志賀町は福井県大飯郡高浜町と友好都市提携を締結し、少年野球大会などの交流事業が行われています。

 平成19年の能登半島地震に際して、高浜町から、給水車1台、ペットボトル1440本、毛布60枚等の応援を頂きました。

上記は、「志賀町史」および「志賀の里語り(故室矢幹夫氏著)」より引用しました。